Our Stories Project

ひたすら海外にあこがれた学生時代
高校2年生の終わりになんとなく受けた英検で思いのほか好成績を収め、英語に目覚める。
先生の勧めで外国語大学の受験を決意。そこから猛勉強をし、志望校へ入学。
大学入学直前にふらっと立ち寄った書店で手に取った「シエラレオネー5歳まで生きられない子どもたち」に衝撃を受け、『国際協力』の世界を目指す。
留学をして、海外で仕事をして、世界を平和にする!
ただその一心で日々勉強に励んだ4年間でした。

就職失敗&新たなチャンス
人より遅れて始めた就職活動はモチベーションも低かったこともありうまくいかず、周りに反対されながらも英会話スクールのスクールスタッフとして働き始める。
「私のやりたいことはこれじゃない。いつか必ず『国際協力』の夢を叶えてやる!』と思いながら日々を過ごす。
そんな時、ひょんなことからフィリピンへ行くチャンスが!
「これを逃したら二度と海外に行くチャンスはない!」と不安を抱えながら、後先考えずに英会話スクールを辞め、フィリピンへ旅立ちました。

フィリピンでの日々
「ゴミ山」「貧困」「バナナ」のイメージしかなかったフィリピン。ほとんど何の下調べもせず、夜のマニラに降り立ちました。マニラ市内は思いのほか発展していて、ネオンもきれいで「日本と変わらない!」とワクワク。
その後、バスで2時間かけて田舎の町へ。どんどん舗装がなくなりガタガタ道。該当もなくなり真っ暗な中、犬の吠える声が響き渡る田舎町へ。
宿泊先で「ここでシャワーを浴びてね」と言われたトイレ兼シャワー室は、便器と大きな樽に水が汲まれているだけの簡素な作り。もちろんお湯なんか出ず、冷たい水をかけながらすでに帰りたいと思いました。
虫のサイズも日本とは比べ物にならず、毎日トカゲとゴキブリに怯える生活。電気も不安定、お湯は出ない、食事もおいしくない、することが何もない。ないないづくしの毎日。
マニラでの生活を目指して必死で就職活動。日本大使館に行き、日系企業一覧のようなチラシを持って帰り、片っ端から「求人募集していませんか?」と連絡を繰り返す。
「帰りたいけど、親と大喧嘩して出てきただけに簡単に帰れない」という、前に進むしかない状況でとにかく必死に日々を生き抜く。

内定、倒産、就職!
何十社も応募しては落とされを繰り返していた中、やっとの思いでオンラインカジノのコールセンターという今思えば何とも怪しい仕事をゲット。外国人が比較的多く住む、フィリピンでも割と高級住宅街のマカティでおんぼろアパートを借り、仕事開始までに時間があったので一旦帰国することに。
久しぶりの日本を満喫していた矢先、オンラインカジノの会社が倒産したので、内定を取り消しますという内容のメールを受け取る。
アパートは契約してしまったので何とかしなくては!と必死の思いで就職活動を再開。絶望感に暮れていたところ、アメリカ大手IT企業から面接に来ないかと誘われる。ITヘルプデスクの仕事なんてまったく興味がなかったけれど、仕事のチャンスがあるだけありがたい、と二つ返事で再びフィリピンへ行くことに!

おっちょこちょいがマックスに出た日
大手IT企業での面接を翌日に控え、準備を整える。英語での面接はうまくいくかな?とドキドキ。
午前中の便で飛んで、午後に面接の予定。
翌日、家を出る前に航空チケットを確認。
「あれ、フライト…昨日やー-----ん!!!」
ありえないミスをやらかしました。
しかも当時、私が使っていた格安航空会社は関空からマニラに毎日飛んでおらず、週2回のみ。来週まで飛べない。
あぁ、人生終わったな、とさすがに思いながら先方に電話をかけて平謝り。
すると、フィリピンカルチャーのおかげか?「OK、OK」となんとも和やかに言われ、面接日を伸ばしてもらえることに。
事前の確認は大事!と心を入れ替えた…つもりでしたが、その後も私は幾度となくこのようなおっちょこちょいミスを繰り返しています。笑

フィリピンで就職!
面接もうまくいき、晴れて入社が決定。私は現地の大学を出たばかりのフィリピン人たちとともに、新卒新入社員として入社。3カ月に及ぶ研修をフィリピン人たちとこなしました。
フィリピンはビジネスでは英語が公用語ですが、やはり現地のタガログ語が強い。挨拶程度しかタガログ語を知らないし、英語でのコミュニケーションすらつたない私にとって現地での研修は毎日がアップアップでした。でも周りの同僚が優しくフォローしてくれたり、気をかけてくれたおかげでなんとか乗り切りました。
新入社員の出し物ということで、全社員の前でフィリピン語の歌を歌わされたことは一生忘れません。
3カ月の研修が明け、ジャパンチームに配属された私は、研修で学んだことがほとんど使えないことに愕然とします。日本人向けの対応は全くべつのもので、また一から学びなおし。
隣の席の年上の日本人女性の先輩にいつも質問していたら「私にばっかり聞かないでよ!」とピシャリと言われ、心が折れかけました。
私をいつも慰めてくれていたのは日本語を喋れる、イケメンボーイフレンドがいるフィリピン人男性と、日本で仕事をしたことがあるフィリピン人マネージャーでした。
不慣れなことばかりで毎日がてんてこまいでしたが、キレイなオフィスでそれなりに毎日楽しく過ごしていたと思います。記憶が美化されているだけかもしれませんが。笑

人生は続く
当時付き合っていたフィリピン人と現地で結婚し、配偶者ビザが自動的にゲットできると勘違いしていた私。ある時私がなんのビザ手続きもしていなかったせいで不法滞在状態であることが発覚。
会社で少し問題になりました。HRが素早く対応してくれ、会社が罰則金を払ってくれ、事なきを得ました。
そんなこんなで過ごしているときに妊娠が発覚。日々つわりと戦いながらも、ホームシックと妊娠での情緒不安定が重なって日本に帰って出産することを決めました。
出産後、フィリピン人旦那の仕事の関係で名古屋へ引っ越し、新しい生活が始まります。しかし、フィリピン人旦那にすると日本は異国の地。いくら過去に日本で働いた経験があっても、慣れない生活で彼もストレスが溜まっていました。毎日お酒を飲みに出歩き、私も初めての子育てで必死。モラハラ・喧嘩・軽いDVの日々…。逃げるように子どもと大阪に戻り、離婚調停・親権争いを経て無事に離婚にこぎつけました。

シングルマザーの日々
いくら実家に居座らせてもらっているとは言え、私も働かなくてはいけない。けれど、保育園も決まっていない3歳の子どもを抱えたシングルマザーを雇ってくれる会社はなく。面接で手ごたえを感じても、子どもの話が出ると一気に顔色を変える面接官たち。保育園が決まってないと内定がもらえない。でも仕事がないと保育園に入れない。今でも問題になっている保育園問題。月10万円以上かかるインターナショナルスクールに入れることも覚悟していた矢先、面接で「あなたと働いてみたい」と言ってくれたITベンチャー企業への就職が決まる。
名古屋で少し採用コンサルの仕事をしていたとはいえ、初めての人事事務。給与計算・社会保険手続き・中途、新卒採用などなど人事の基礎はすべてこの会社で学びました。
ベンチャー企業だけあってスピード感もある。しんどいけれどやりがいを感じていました。
ただ、子どもがいる母親を雇ったのは初めてだったのようで、子どもが体調を崩すたびにお休みをもらっていた私に上司は「なんとかんらないのか?」とよく言っていました。
働くママの味方はいないんだなぁとしみじみと感じた日々でもありました。